ZARDというユニット名を、1990年代のJ-POPを代表する存在として記憶している方は多いのではないでしょうか。
ボーカル坂井泉水の透明な声と、ビーイング系のキャッチーなメロディーで、1990年代の日本中をやさしく包み込んでいたグループです。
2007年5月27日、坂井泉水が入院先で逝去された出来事は、いまなお多くの人の記憶に刻まれています。
ZARD(ザード)はどんなグループ?坂井泉水ら結成の経緯とは?
ZARDは「ザード」と読みます。
英単語の「ZARD」は造語で、「危険を冒しても進む」という意味合いを込めて名付けられたとされています。
1991年に結成され、当初は数人のメンバーによるバンド形式でスタートしました。
所属レーベルはB-Gram RECORDS(ビーイング系)で、TUBE、B’z、WANDS、DEEN、織田哲郎などが在籍した1990年代J-POPの黄金期を支えたレーベルです。
(出典:Wikipedia「坂井泉水」項目・オリコン「ZARD坂井泉水、不慮の事故で死去」・2026年4月確認)
活動期間が進むにつれて、ZARDは徐々にバンド色を弱め、坂井泉水を中心としたソロ・プロジェクト的な性格を強めていきました。
1990年代中盤以降は、メディアや音楽番組への露出を極端に絞る独自のスタンスを取っていて、テレビでの歌唱機会が極めて限られたアーティストとして知られていました。
わたしは中学生のころ、ZARDの楽曲がテレビで流れることがほとんどないことを不思議に思っていました。
ヒット曲はラジオやCDで耳にするのに、坂井泉水本人の姿を映像で見る機会が圧倒的に少ない。
「歌だけがあって、人物像は薄いベール越しにしか見えない」というZARDの存在感は、当時の音楽シーンの中でも非常に独特なポジションを占めていました。
ZARDのメンバーは?坂井泉水と歴代メンバーとは?
ZARDは結成当初の数年間はバンド形式で、複数のメンバーを擁する編成でした。
ただし1990年代中盤から後半にかけて、メンバーの脱退が相次ぎ、1996年頃以降は実質的に坂井泉水のソロ・プロジェクトとして運営される形になっていきました。
ボーカルの坂井泉水は1967年2月6日生まれ、本名は蒲池幸子(かまち さちこ)です。
神奈川県出身で、ZARDデビュー前はモデルとして活動していました。
ZARDというグループの楽曲のほとんどで、作詞は坂井泉水本人が担当しており、シンガーソングライターとしての側面も非常に強いアーティストでした。
(出典:Wikipedia「坂井泉水」項目・2026年4月確認)
楽曲の作曲は、織田哲郎、栗林誠一郎、大野愛果など、ビーイング系を支えた職業作曲家の方々が中心となって担当しました。
坂井泉水の言葉と、ビーイング系作曲陣のメロディが組み合わさることで、ZARDの楽曲は1990年代のJ-POPのスタンダードとして確立していきました。
わたしはZARDの楽曲を聴いていて、いつも「言葉の選び方が極端に丁寧だな」と感じていました。
当時のJ-POPの中でも、坂井泉水の歌詞は派手な比喩や強い断定を避けて、誰かのそばに静かに置かれるような言葉が多く使われていました。
あの言葉の置き方が、ZARDの楽曲が時代を越えて聴き続けられる理由のひとつだと思っています。
ZARDの代表曲は?「負けないで」「揺れる想い」が生まれた背景
ZARDの代表曲を1曲挙げるとすれば、ほぼ確実に名前が挙がるのが「負けないで」です。
1993年1月27日にリリースされたこの楽曲は、ZARDの存在を全国区に押し上げ、その後30年以上にわたって応援ソングの定番として歌い継がれている1曲です。
24時間テレビのテーマソングとしても繰り返し使用され、世代を越えて知られているJ-POPの代表曲のひとつになっています。
ほかにも「揺れる想い」(1993年)、「マイ フレンド」(1996年・スラムダンクED)、「君がいない」、「Don’t you see!」(ドラゴンボールGT OP)、「DAN DAN 心魅かれてく」(同・OP)など、ZARDの楽曲群はアニメタイアップとしても多数記憶されています。
特に「DAN DAN 心魅かれてく」は、20代以上の日本のリスナーであれば誰もが口ずさめるレベルの代表曲です。
(出典:Wikipedia「坂井泉水」項目・2026年4月確認)
「マイ フレンド」のサビの「私の中の生きる支えになるわ」というラインや、「揺れる想い」の「揺れる想い 体じゅう感じて」のメロディは、いまも結婚式やカラオケのスタンダードとして消費され続けています。
J-POPの中でも、これだけ多くの楽曲が「世代の合言葉」として残り続けているアーティストはそう多くありません。
わたしはZARDの楽曲を改めてサブスクで通しで聴くと、1990年代の日本の空気がそのまま再生されるような感覚を覚えます。
派手さに頼らず、メロディと言葉の質だけで聴き手の心の隙間に届く。
これがZARDの楽曲が時代を越える理由だと、毎回確認させられます。
ZARDの坂井泉水の死因は?2007年の転落事故の経緯とは?
ZARDの坂井泉水は、2007年5月27日、入院先の病院で40歳で逝去されました。
死因は、頭部の強打による外傷性頭蓋内損傷とされています。
経緯を時系列で追うと、まず2006年4月、坂井泉水は子宮頸がんの治療のために入院しています。
治療を続けるなかで2007年4月には肺への転移が確認され、抗がん剤治療が再開されました。
それでもなお、坂井泉水は新しいアルバム制作とコンサートツアーに向けた作詞を続けており、再起動の意志を強く持っていたと伝えられています。
(出典:Wikipedia「坂井泉水」項目・オリコン「ZARD坂井泉水、不慮の事故で死去」・ウィキニュース「ZARD・坂井泉水死去」・2026年4月確認)
2007年5月26日午前5時40分頃、入院先の慶應義塾大学病院の非常用スロープの手すりを越えて、約3メートル下の駐車場に転落している坂井泉水が、通行人によって発見されました。
集中治療室で緊急処置が行われましたが、後頭部を強く打ったことによる脳挫傷のため、翌27日午後3時10分に逝去されました。
警視庁・四谷警察署は事故と自殺の両面から捜査を行いましたが、最終的な公式発表では「不慮の事故」として整理されています。
享年40歳という早すぎる別れは、当時のJ-POPシーンに大きな衝撃を与えました。
所属事務所のビーイングは、坂井泉水逝去後も継続的に未発表音源のリリース、ベストアルバムの発売、コンサート映像の公開など、ZARDの楽曲を絶やさず届ける活動を続けています。
わたしは坂井泉水が亡くなったニュースを当時の朝のニュース番組で知って、「負けないで」がそのまま流れる映像をぼんやり見ていた記憶があります。
あの楽曲の作詞家本人が、こんなにも早く逝ってしまうという事実を、当時のわたしはどう受け止めればいいのかわかりませんでした。
2026年の今、ZARDの楽曲を聴き返すたびに、その日の朝の感覚が少しだけ甦ります。
ZARDの現在は?2026年も続く楽曲リリースと追悼の動きとは?
ZARDというグループは、坂井泉水が亡くなった2007年以降も、所属事務所ビーイングの手によって楽曲リリースや追悼活動が継続されています。
未発表音源のリリース、ベストアルバム、ドキュメンタリー作品、コンサート映像のBlu-ray化など、坂井泉水が残した素材を丁寧に世に出し続けるスタンスが取られています。
毎年5月27日の命日には、ファンによる追悼の動きが続いていて、SNSではZARDの楽曲が改めて再生される動きが定期的に立ち上がります。
2026年現在、坂井泉水の逝去から19年が経ちますが、楽曲のサブスク配信状況やCDの流通は維持されており、ZARDの音楽は新しい世代のリスナーにも届き続けています。
(出典:Wikipedia「坂井泉水」項目・2026年4月確認)
「負けないで」が応援ソングとして歌い継がれる現象も、坂井泉水が亡くなった後の方がむしろ強くなっている印象すらあります。
東日本大震災後の応援番組、コロナ禍中の医療従事者への応援動画、各地のスポーツイベント。
あらゆる場面で「負けないで」が選ばれ続ける事実は、坂井泉水が書き残した言葉の射程の広さを今も証明し続けています。
わたしはZARDというグループが「坂井泉水の遺した楽曲を聴き続ける場所」として2026年もまだ生きていることを、なんだか不思議で大切な感覚として受け止めています。
人はいなくなっても、書き残した言葉と歌は残る。
坂井泉水が入院中まで作詞を続けていたという事実が、その言葉のひとつひとつに静かな重みを足しているように感じます。
2026年の今も、ZARDの楽曲はラジオで、街角で、誰かのプレイリストで鳴り続けています。


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